2代目島田義道の生涯

二代目「島田義道」の生涯

明治21年1月6日島根県能義郡母里村に生まる市川豊省氏の次男なり祖父豊章氏は松平出羽守の分家母里藩主の家老職として名あり氏が島根県立第一中学校在学中横浜なる母方祖母の訃報に接し来濱叔父政秀氏の家を継ぐこととなり明治30年4月横浜商業学校へ入学同42年同校を卒業後家にありて営業を補佐す、大正12年5月父に別れ同9月大震災の為あ夫人を失ひ家財全焼せり猶其他にも不幸者を出し火災厄に遭遇せらるる氏は深き責任感の下に生存娼妓には金品を與へ厚く遇して各方面により雇人を以て國許へ送らるる等大に優遇せらる震災後夫人の國許三重県桑名に於て一時営業をなし横濱の復興ならんとするや、翌13年2月再び来濱現在の場所へ建築をなし、同年5月25日開業して今日に至る氏は常に娼妓雇人を愛撫せらる雇人も其家族的好遇に感謝しつつ10年20年以上の長きに亘り勤続するもの多しといふ尚家に一男一女あり

以上横浜市誌より抜粋(一女が現在の女将の母親です)

初代が明治17年高島町から4人で始めた遊郭が、真金町に移転。そこで大火に会い、永楽町に転居、3階建て、100名からの働く人たちがいたと聞いていました。明治30年には払った税金が3,520円(今でいえば3億5千2百万円と換算しても良いと聞きました)大正12年9月1日関東大震災に遭い妻を助け出すことが出来ず、5歳の娘と4歳の息子を残し十月十日のお腹の赤ちゃんと共に26歳で亡くなりました。横浜が復興するまで妻の実家の三重県の桑名で営業。翌年真金町の大鷲神社を前方に見て右角から2件手前に再建しました。ところが再び太平洋戦争で焼失、財を失い初代が晩年隠居所として過ごした蒔田の地で昭和22年旅館業として再建しました。昭和52年4月12日、孫(今の女将)が頑張っている姿を見ながら安心して眠るように亡くなりました。2年寝たきりになりましたが、頭もしっかりしていて今の女将が奮闘している姿を見届ける様に安心して90歳で亡くなりました。女将27歳の年100年経った母屋も新築1年後、苦労を掛けた三代目の息子が亡くなった半年後でした。関東大震災と太平洋戦争と横浜も2回に渡り9割が焼け野が原になった時代、15歳で両親と叔父との話合いの中、養子の話が決まっていたとは知らず、一人船に乗せられ横浜港に着くまでの心細さはなかったと晩年話しておりました。二代目も父と叔父の意に従い立派に次へと橋渡し、波乱に富んだ苦難の人生でした。