初代島田政秀の生涯

初代「島田政秀」の生涯

「君は徳川藩士にて安政2年12月30日を以て懸下小田原町小峯に生まる。山本繁之助の長男なり13歳より劍士齊藤彌九郎氏の門に入りて3ヶ年間武術を錬磨し又漢詩を修めて大いに螢雪の苦を積む其板垣伯の民権自由の非を唱えうるや君は自由党に入りて盛んに薩閥政治の非を鳴らして東奔西走して一方の驍将たり其の自由黨志士の保安條令により東京市外に退去を命ぜられし當時に於ては熱誠を以て志士を好遇して寢食を忘るに至る君は後政界を退き松島樓を経営せるが大正元年より蒔田町字東谷戸に松風閣を開き園芸を唯一の楽しみと為し悠々自適する君は資性謄大にして意気極めて豪快なり君は克く談し能語るの人にて國を憂へ縣政を論じ市を愛するの至誠は燃ゆるが如くにして元氣依然として壮烈星斗を衝くの概あり君は敬神崇仏の志に厚く仁義を説き禮節を重んじ一家一族の平和を計りて豪も名声を欲せず松風園裡に俗塵を避け其芳姿清秀を放てるは人の羨望するところなり」横浜近代史辞典大正7年抜粋

 

親は小田原藩の家老職にありましたが廃藩置県により牛込にて19歳で警察署長と言う職を頂いたにも関わらず、板垣退助と共に自由民権運動に奔走し東京圏追放、横浜に流れてきて4人で始めた遊郭が、100人までの大店になりました。4人で始めた場所は今の高島町、当時は高島町が桜木町の駅と聞いています。関東大震災大正12年の年、5月30日に大正元年より別荘としていた蒔田のこの地で亡くなりました。隠居後は「正義とは何か」と亡くなるまで論じていたそうです。2代目は、初代の最後を明治天皇を診療された医師をこの蒔田にお越し頂き診療して頂きました。医師は「枯葉が散るがごとく」と一言おっしゃったそうです。もう手の施しようが無いことを優しく伝えて下さったのでしょう。2代目の初代に出来る精一杯の恩返しだったと思います。安政2年の大地震の年に生まれ、大正12年関東大震の年、5月30日69歳で亡くなりました。幕末と言う激動期を生き抜き今を生きる私達に何が大事か何を為すべきかを教えてくれたそんな人生だったと思います。商売の秘訣…「お客様が何を望んでいるかただそれだけを考えていきなさい。お金は後からついてくると言っていたそうです。」